あらすじ
昔あるところに、言葉の世界があった。
その真ん中に、ひらがなの国があった。
ひらがなたちはくっつき合って、意味を持つ単語になり、仲良く暮らしていた。
あるとき、道端に、濁点だけが落ちていた。
濁点だけでは何の意味も持たない。
意味の持たないものがいるなんて、ひらがなの国ではついぞなかったことだった。
事情を聞くと、濁点は、元々、「ぜつぼう」の「ぜ」の濁点だったらしく、主の「ぜつぼう」がいつも絶望していることに心を痛め、自分さえいなければ主はこんなにも苦しまなくてすむのにという思いから、自ら、自分を捨ててくれと頼み、捨ててもらったとのこと。
主をなくした濁点は、出会う文字達に、自分を拾ってくれとお願いするが、濁点は他の言葉とくっつくと意味が変わってしまったり、意味をなさない単語になってしまったりするので、誰もがみんな濁点を拒否した。
濁点は、意味を持たないまま、時が過ぎていった……
そこに現れたのは、「おせわ」。
「おせわ」は、意味を持たないやつを何とかするのが仕事だといって、濁点をある場所につれていく……
濁点は、めぐり巡って
不思議な絵本だった。
軽妙な文章で始まるこの『ぜつぼうの濁点』は、ひらがなたちが登場する。
文章の店舗が個性的でテンポよく、展開もユーモアがありながらどこか哀愁があって味わいがある。
主人公の濁点は、「ぜつぼう」の「ぜ」についた濁点だ。
「ぜつぼう」は、その名の通り、いつも絶望していた。
それに心を痛めていた濁点は、どうか自分を捨ててくださいと「ぜつぼう」にお願いするのだ。
果たして、「ぜつぼう」は濁点をすて、「せつぼう」に変わった。
捨てられた濁点は、行き場もなく、めぐり合うひらがなたちに、どうか自分をもらってやってくださいと頭を下げるのだが、なかなか貰い手が現れない。
「ゆすり」が濁点を貰うと商売にならないというところなどは、なるほど確かにと感心し、またこのセンスに感心した。
思えば日本語というものは不思議なもので、濁点がつくと、言葉の意味ががらりと変わる。早々気安く引き受けるわけにはいかない、というわけだ。
しかし、濁点は、濁点だけでは意味をなさない。
いく当てのない濁点が哀れに思う反面、彼は一体どうなるのだろうと物語の不思議な魅力に取り付かれる。
最後に現れた「おせわ」。
彼はその名前のとおりに、濁点をお世話するために表れたのだという。
この世に存在する意味のない奴を
世話してやるのがおれの仕事だ。
いいんだいいんだ礼にはおよばん。
すぐに何とかしてやるからな。
よかった、これで濁点も行き場ができるだろう──と安堵したのもつかの間、「おせわ」はとんでもないことをした。
濁点を、「し」の沼のほとりまで連れて行くと、
沼の中に放り込んだ……!
「し」の沼は、かつて主だった「ぜつぼう」が繰り返し足を運んでは引き返した場所。
つまり、「死」の沼……。
そこに「おせわ」は濁点を……
放り込んだよ……!
すぐに何とかしてやるって、そういう意味の何とかしてやるだったんかい!
いやいやまてまて、もしかしたら、「し」に濁点がついて、「じ」になって、文字という意味を持つという結末になるのではないか。文字の話として、ある意味おさまりがよいではないか。
そう思いつつ読み進めると、物語は思いもよらない方向に展開する。
沼に放り込まれ、絶望を感じる濁点。
しかし、これでよかったのだ、と呟いたとき、気泡、つまり「きほう」ができて……。
そう、彼は「きほう」と一緒になり、「きぼう」の濁点になったのだ!
私はこの展開に、どこか励まされたような気持ちになった。
死の沼から、湧き上がる気泡が希望に。
絶望のただなかにいた絶望の濁点が、希望の濁点になった姿は、絶望の淵から這い上がる強さを示しているように思える。これは、絶望の只中にいても、希望があるという示唆だろう。
軽妙な文章でユーモラスな展開を綴りながらも、その結末は希望に満ちたものだった。
濁点が「きぼう」の濁点になっただけに。
話の内容は面白いが、出てくる単語がちょっと難しいので
話の内容は不思議で面白いが、出てくる単語たちが少し難しいので、対象は中学年からになるだろう。
元々おとな向けに書かれた『ゆめうつつ草紙』という本からの抜粋、加筆修正らしいので、やはり低学年、幼児には不向き。
読み聞かせをしても、内容と意味がちょっと理解しづらいため、ひきつけるのに苦労するだろう。
ティーンズにも読んでほしいなと思ったが、わざわざ絵本である必要はなさそう。
何より、絶望の意味を知っている者でないと、この結末に感動しないような気がする。