あらすじ
空から火が降ってきて、カーリンヒェンは住んでいたところから逃げ出しました。
おなかが空いても、気にかけてくれる人は誰もいません。
カーリンヒェンは着の身着のまま、助けを求めて国々をさすらいます。
しかし、どこの国でも、カーリンヒェンを受け入れてくれるところはありませんでした。
行く場所のないカーリンヒェン。
あてどもなくさまよっていると……。
難民というテーマを扱った絵本
難民問題、という言葉には複雑なものが混ざりあっていて、とてもでないが一言で言い表せられない。
こんにちの難民問題は深刻を極めている。
簡単に、じゃあこうしたらいいとか、こうするべきだ、と言い切れないものが混ざりあっているのである。
しかし、言えることはある。
難民問題の一番の犠牲者は、子どもたちだ。暖かな家も、快適な寝具もない生活を強いられ、学校にも通えないばかりか、食べ物だってろくにない。
そんな生活を子どもたちに強いる権利は、どこの国のどんな人だって持っていない。
カーリンヒェンは戦火から逃れて、難民となった。両親、兄弟はいたのだろうか。いたとしても、散り散りだ。カーリンヒェンは孤独になった。
着の身着のまま、いろんな国に行っては、助けてほしいとお願いする。しかし、ほとんどの国では、カーリンヒェンを受け入れてくれない。
そのたびに、カーリンヒェンは言う。
「わたしが よそから来た子で、みんなとちがっているから、好きになってもらえないのね」
確かにそれも大きな理由の一つかもしれない。
ここに、異国間で理解し合えない悲しい現実がある。異文化の壁は、私たちが思っている以上に分厚いものなのかもしれない。
しかも、誰かを助けるとなれば、負担が増える。それまでは背負えない。責任も負えない。だから、カーリンヒェンのような子に背を向けてしまう……。
ただ、カーリンヒェンが「みんなと違っているから」と理由をつけて自分を納得させているのを見るたびに、異文化をわかりあおうとするのには、両者の歩み寄りが大切なんじゃないか、とも思った。
誤解なきよう書いておくが、これは難民問題とは全く関係がない。
カーリンヒェンが孤児になってしまったのはカーリンヒェンのせいじゃないし、彼女が、難民になって、一日一日必死になって生きているのは十分伝わっている。
このままどこの国からも拒否され続けたら、彼女は生きる気力も体力もなくなっていってしまったことだろう。そう思うと悲しくてやりきれない気持ちになる。
だが、カーリンヒェンが霧ガラスの国にやってきたとき、彼らはカーリンヒェンが飛べないことはおいておいて、受け入れようとはした。
しかし、カーリンヒェンは、彼らのごちそうが死んだネズミだということを知り、「そんなものは食べたくない」「食べることを考えただけでぞっとする」と霧ガラスの食文化を否定するところは違和感を感じたのは確かだ。
霧ガラスが「他に食べるものは、ないしなあ」とすまなそうにしているのに対して、カーリンヒェンは「わたしがよそから来てみんなと違っているからわかってもらえない」と言う。しかし、わかりあうには双方の努力が必要なのではないか。
霧ガラスには霧ガラスの文化があるのだ。ごちそうを振る舞おうとした霧ガラスに、「ぞっとする」はあんまりではないか。私が霧ガラスだったら、あまりいい気分はしない。
だが、カーリンヒェンのような難民の子が、世界にたくさんいるということは心が痛くなってくる事実だ。
誰が悪いのだろう、ではく、大切なのは、何ができるかだ。
カーリンヒェンは幸運にも受け入れてくれる人を見つけられた。
だが、彼女のような子ばかりでないのは、私たちは知っている。
彼女のような子を増やさないためにも、私たちはいろんなことを考えていかなくてはならない。
カーリンヒェンは、最後に受け入れてくれた人にいう。
「あなたのような人を、ずっと さがしていたの。
やさしい人を おばかさん というのなら、
わたしも、あなたのような おばかさんになりたいわ」
私たちは、おばかさんになる勇気をそろそろ持たなければならないのだろう。
私たちにできることなどたかがしれているが、それでも知らないふりをするよりかはいい。みんなを救うこともできないし、誰か一人を直接救えるわけでもない。
でも、できるところからひとつずつ、おばかさんになっていけたら。
難しいテーマを持った本なだけに
難しい内容の本なだけに、対象は高学年からになるでしょう。
文章の量は多めで、描写もしっかりとあります。
着の身着のまま、さまようカーリンヒェンが本当に哀れで心に突き刺さります。