あらすじ
ビリーはいつもびくびくしていた。
眠るときになると、心配ごとが次々とわいてきて、よく眠れない。
おばあちゃんの家に泊まったときもそうだった。
心配ごとが次々わいてきて、眠れない。
ビリーは、おばあちゃんに相談した。
すると、おばあちゃんは手のひらに収まるほどの小さな人形を持ってきてくれた。
これは、「しんぱいひきうけにんぎょう」だという。
この人形に、心配ごとを打ち明けて、枕の下にいれて眠ると、人形たちが代わりに心配してくれるから、よく眠れる、とのことだった。
ビリーは、早速、「しんぱいひきうけにんぎょう」に心配ごとを打ち明け、眠ってみることにした……。
心配ごとが膨れ上がって眠れない、そんな夜は……
子どもの頃、不安に襲われ、夜、眠れなくなることがあった。それは本当によくわからない不安で、あえて言うなら時間が過ぎていくということに恐怖していたとしか説明できない。
時間が過ぎ去ることに恐怖していたと書くと、やたらに早熟な大人びた印象をもたれるかもしれないが、実際はそんな複雑めいたものではなくて、なんだか漠然とした不安だった。
漠然としているものだから、当然、他人にうまく説明できない。だから、当時、不可解な不安をしきりに訴える私を、周りは怪訝な顔して見ていたことだろう。
『びくびくビリー』のビリーの心配も、突拍子もないものばかりだが何となくわかる気がするのは、私の不安と根っこのところが同じ性質のものだからかもしれない。
ビリーの場合は、私のように過ぎ去っていく時間ではなくて、帽子のことだったり、靴のことだったり、雲のことだったりするわけだが、その具体的な心配の内容は、きっと本人にしかわからないのだろう。だから、どんなに慰められても、その慰めが的を射ている気がしなくて、心配は居座り続けるばかりなのだ。
そんな心配を抱えて寝床に入る子どもがほかにいることに、正直、驚き、残念な気持ちになった。残念な気持ちになったというのは、つまり、もっと早くに『びくびくビリー』に巡り会っていればよかったという、どうにもならない後悔のようなものだ。まさに心配が膨れ上がって眠れないとき、『びくびくビリー』を読んでいたら、私は仲間がいることに安堵し、そして不器用ながらも話に登場する「しんぱいひきうけにんぎょう」を作ってみたことだろう。
恥ずかしながら、『びくびくビリー』を読むまで、「しんぱいひきうけにんぎょう」のことを知らなかった。もし、心配ごとが膨れ上がって眠れないというような子が私のそばにいたら、私は先人の知恵にのっとって、「しんぱいひきうけにんぎょう」をその子に教えるだろう。
知恵とは、そうやって広まり、引き継がれていくものなのかもしれない、などとぼんやり思う。何ともはや、歴史を感じる思いだ。
『びくびくビリー』では、「しんぱいひきうけにんぎょう」の紹介だけにとどまらない。心配ごとを引き受けてもらった上で、物言わぬ人形に対するビリーの優しさがほほえましくも優しい気持ちにさせてくれる。人形たち一人一人に名前をつけてあげているところも何とも優しい気持ちになる。
そういった優しさは、かけがえのないものだ。
ともすれば心配ごとを呼んでしまうような危うい優しさではあるが、物言わぬものたちを慮る優しさは、無理に装おうとしても装えない、かけがえのない暖かいものだと、『びくびくビリー』を読んだ子どもたちに伝わることを願ってやまない。
心配ごとで眠れない夜を過ごす子の心の支えになれば
心配ごとがあって眠れなくなるのは珍しいことじゃないんだよ、と安心させてくれる上に、読後、優しい気持ちになれる一冊。
読み聞かせは眠る前などがいいかもしれない。