私はそのときを悟ったのだった。エーテルの海に出る日が来たことを。
あらすじ
ある年、96歳の伯父が亡くなり、72歳の私に遺産が遺された。その遺産の中には、クジラ型の潜水艇が一艇、含まれていた。
そのクジラ型の潜水艇は金庫に入るほどのサイズのもので、自分で設計図を見ながら組み立てなければならなかった。私は何とか苦労しながらクジラを組み立てた。
組立完了したクジラを、私は水槽の中に入れて大切に飼育した。クジラはすくすくと成長し、歯車や金属類を食べた。水槽に入りきらないほど大きくなったら、今度は海に放して飼育した。クジラはみるみる大きくなった。
ある日、最新潜水艇が“何かにかじられ原因不明の沈没”の事件が新聞に載ったとき、私は旅立つときがきたのだと悟った。
クジラ型潜水艇に乗って、私の宇宙の航海は幕を開けたのだった。
不思議な星間旅行記
日常に疲れたとき、旅に出る。誰もいないところへ、まだ見ぬ何かを見に行きたいと心から願ったことはないだろうか。
『モービー・ディック航海記』は、航海といっても、その行く先は青い宇宙の海である。しゃべるクジラ型の潜水艇、モービー・ディックに乗って、黒猫のタンゴと一緒に小惑星の散る海へとこぎ出すのである。
そこには、必ずや何かを得ようなどというかつえた期待はない。ただ静かに、熾きのように、旅に出るという夢があるだけだ。目的のない宇宙の旅。それはどんなにか自由で、不思議に満ちていることだろう。
短編からなるこの航海記は、不思議な体裁を保っている。話につながりはあるものの、おおよその起承転結がほとんどない。切り取られた不思議な体験がつづられているだけだ。時に示唆的であったり、刹那的であったり、詩的であったり。
考えてみてほしい。
広大な宇宙の海を、悠々と泳ぐクジラの潜水艇を。
それだけで心満たされる何かが沸いてはこないだろうか。
独特な文体とその文章のリズムが、静かに波打ち、世界を構築している。
その世界を前にして、想像力の枠などもろいものだ。ここまでだろうという無意識の枠を軽々と飛び越えて、クジラ型の潜水艇は人語を話すし、アリは高度な生態系を築く。粉々に散った惑星のどれかには王様がいて、国を再建しようとしている。ロボットたちは乗り手のない自動車を作り続けているという哀切。
旅の終わりは突然で、まるで春の夜の夢のようだ。SFがなんたるかを知らない私は、おそれおおくも“非常にSF的な”という表現をもってしてしか、この物語を説明する言葉を持たない。
大人向けの寓話
示唆に富んだ内容は大人向けといって差し支えないでしょう。イラストは多く、カラーのものが収録されています。たむらしげる氏の圧倒的な世界観が広がっています。
本編全体を覆う、どこかもの悲しい、寂しい雰囲気は大人向けならではでしょうか。ゆっくりと想像の波にひたり、疲れを溶かしていくように静かに楽しむ本です。
文章量は多くありません。イラストはすべてカラーなので、眺めるだけでも楽しめる一冊です。心が疲れたときに開きたい一冊。